映画『幸せなひとりだち』
正式には『ブリット=マリーの幸せなひとりだち』というのが映画のタイトルです。
昨日、舞浜のイクスピアリの映画館まで行き映画鑑賞としゃれこみました。
日曜日にしてはやや少ないかなと思う人出ではありましたが、やはりソーシャル・ディスタンスに気遣う必要はありました。
しかし映画館は空いていて、とくにこの映画は空席も多かったので、ゆったり観られました。
スウェーデン映画で、主人公は私と同世代の女性です。紹介文によると、
「笑顔を忘れた主婦一筋の主人公が、新天地で自身の人生を見つける感動作」とのこと。「様々な困難に見舞われながらも周囲の助けを得ながら人生の大切なことを見出して行く様子が北欧らしい街並みや家具とともに描かれている・・・」
同世代の彼女の、第二の人生の歩み方を知りたくて、私だったらどうだとうと考えてみたくて観に行った映画でした。
最終的には180度違う人生を選択した彼女が意気揚々とパリの街(私は見損なったが、パリだったらしい)を歩く姿で終わるのですが、何かすがすがしい気持ちが残ったラストシーンでした。
しかし、私は考えました。私だったらと・・・
まず私なら、きっとあんなに掃除が得意ではない。と、これは真実であるが冗談でして・・・(言いたいことは)第一に私は自分に振り向いてくれない夫にひたすら家事を行うという報酬を与え、それと引き換えに「安定し守られ優雅な生活」を送れる(退屈な)状態に自分を置くことはなかったであろう、と思った。
具体的には私だったら、自分も社会でバリバリ働き、その分不自由となった家事は夫が協力しないとお互い生きていけない状況にして・・・。その状況下、夫にいかに生きるかを考える機会を与える。そして、私も夫も輝く。しかし、夫がそれを妻に求めない場合は話し合いは次の段階に行かざるを得ない。つまり、別々な人生を歩むか、または(社会参加した)私という存在を夫におおいにアピールして選択を迫る。
そして、もし新天地で再出発するとなった場合を自分に置き換えるとすると・・・
あんなにはっきりサッカー少年少女に物をきっぱり言えただろうか、すんなり溶け込めただろうか、などと考えた。やはりまた、あの家事処理能力はプロ中のプロだと感嘆しました!
そして、もし夫が迎えに来た場合、夫が変わる努力をして、家事も分担(半分とは言わないが)に同意して努力すると誓うのであれば、最終的な夫婦として出直せるかのチャンスに掛けると思いました。それから第二の人生をしっかりと自分で選んで歩むだろうなと考えもしました。
映画を見終わって考えたのですが、ブリット=マリーはパリの旅を終え、どのように生きていくかを見てみたかった。再就職も困難な年齢と最初の場面であったが、60代の女性が一人で生きていく方法を知って参考にしたかったと思いました。
甘え!? であろうと思う。やはり自分の生きる道は映画に頼らず自分で切り拓けと、この映画は示唆しているのかも知れないと思いました。