ceciliaのブログ

小さなつぶやき!

ヤキトリ

NHK 土曜ドラマ「引きこもり先生」の3回目を観た。

11年間引きこもっていた中年を佐藤二朗が演じている。娘が小さい頃、社会に絶望して以来、家族にも壁を作り、父を追う娘を冷たく手放し、以降ひきこもりとなってしまった。その娘を突き放した自分が心の傷となっており、今の自分では娘に会う資格は無いと思いながら暮らしている。

高校生となった娘に今も会えずに、かろうじてあまり美味しいとは言えない焼き鳥を出す小さな飲み屋を営んでいた。

ひょんなことで店に客として来た高橋克典演じる中学校の校長に声をかけられ、不登校だった生徒が集まる特別クラスの先生に抜擢される。そのクラスの生徒たちは心に傷を負いながら、かろうじて自分の学級ではない特別クラスにやっと来ている子供達だ。

引きこもりだったため、話もおぼつかなく、言葉も出てこなく、社会にやっと出ているという男性を佐藤二朗が巧みに演じている。

悲惨ないじめの場面がいくつも物語にはあり、いじめていた頭(かしら)が今度はいじめられる側になるという凄まじい現実がドラマの骨子となって表現される。

ある日、あまりのいじめのひどさに心痛めた「ヤキトリ」(焼き鳥屋を営んでいるから子供らにつけられたあだ名)は泣きながら「学校なんて来なくたっていいんだ」と生徒に思わす言ってしまう。

そのことがSNSで取り上げられ、その中学では数名不登校の生徒が増えてしまった。教育委員会に呼び出され中学の現実を聞かれたヤキトリは「◯◯中学にはいじめは無い」と嘘の証言をしてしまう。

なぜ嘘を言ったのかというと、前日校長に呼び出され「子供の将来のためにいじめの事実は差し障りとなるから(中卒と大卒の生涯賃金を示され)、いじめは無かったと言うよう・・・」示唆されたからだった。校長は教育委員長の座を狙っている野心家であった。

教育委員会の面談で嘘の証言をしたヤキトリは発狂してしまう。それ以来長い引きこもりの始まりとなるのではないかと自身も絶望し、自分の部屋の中で、大声で叫び打ちひしがれ苦しむ毎日が始まってしまった。

嘘を証言した日に娘と11年ぶりの再会となるのだが、嘘を言った自分の負い目から、娘に父親らしい言葉もかけられず「嘘を言った。ダメな自分だ」と繰り返すだけで、悲しくなった娘は走り去っていってしまう。

学校に行けなくなったヤキトリ先生。何日か経ってようやく、学校側の隠蔽体質を改めるべきだと気づいた特別クラスで一緒の先生(若い未熟だが心ある女性)が「学校の都合で嘘を言わされた」と生徒にヤキトリの学校を休んでいる事情を説明した。

特別クラスの生徒たちがヤキトリの自宅にみんなで行き、窓の外から大きな声で叫ぶ。「来なくて良いからね。苦しい時は学校なんか来なくて良いから」「寂しいよー」「無理すんなよー」といつまでも生徒らの叫びが続いた。窓から顔を出した先生は明らかにやつれ、打ちひしがれていた。

苦悩の末、学校に向かったヤキトリ。校長が「無理しなくて良いですよ」と玄関で言うと、「無理してします。もう逃げません」と言うヤキトリだった。

きっといじめに立ち向かい、自身の内面の弱さとも向き合い、結果娘との対面が幸せなものであったら良いなという、次回の展開を予測させ3回目は終わった。

 

 

 

 

 

追悼(図書館で書いたまま掲載)

またひとり私を置いて永遠という未知の世界へ旅立ってしまった。彼女は私と同じ68歳。死という概念がまた余計わからなく遠くなってしまったようだ。

亡くなる21日前に電話で長く話した。とりとめのない会話だった。LINEを交換する事になり、いつでも繋がれる事を喜び、安堵した日だった。

コロナが終息したらまた会いたいね! とお互い言った。ワクチンの話もした。

いつも私の話の聞き役をしてくれ、何より私の一番の応援団だった。

戒名があまりに生前の彼女に似つかわしく泣けてきた。

あんなに死という観念が遠く、あっけらかんと「82までは当然生きるでしょ?」と言っていたのに。

もうあの声を聞けなく、あの優しい言葉も発してくれなくなった。また一人私にとって不可解で恐れ、また受け入れようともがいている死を体験した人となり、恐ろしく遠く、永遠の世界に旅立ってしまった人として私の心を締め付ける。

「死ぬってさー」ってあなたの声でどんなかを聞かせてくれないですか? 

私はまたより一人ぼっちになってしまったよー。

『流れ星』BSドラマ

久しぶりのブログである。生活の変化と追われている現実になかなか文章を書く余裕が生まれなかった。今も混沌の真っ只中ではあるが、なんか書いてみるのも良いなと思ったから始めている。

 

昨日ドラマで面白いのを観た。録画してあったBSの松坂慶子主演のドラマだ。複雑で私の文章力と限られた時間では到底状況を説明するのは至難の技である。なるべく簡潔に言えば味気なくなるし・・

 

トライしてみる。

私と同じ年齢の主人公は長年営んだ下宿屋を閉めようとしていた。父の代から引き継いだ今では珍しい下宿屋である。夫との仲は冷え切っていて会話も思いもすれ違いというのがひしひしと伝わってきて、どこにでもいる中年夫婦に見えた。外出した夫はその晩外出先で突然死してしまう。

 

彼女の元に魔王使いが現れて望みを3つ叶えると言う。彼女は18歳の頃に戻りたいと希望する。好きだった下宿人の教師になぜ突然自分の前から消えたか知りたかったからだ。父親が経営する下宿屋を手伝う18歳の女子学生の松坂恵子がいた。そこに68歳の同じ人物がお手伝いさんとして魔法使いの女の子と住み込みで働くことになる。もちろん誰も気づかない。

 

そこに今の亭主も登場する。教養もなくほとんどチンピラだった亭主。彼女は旅行中に消えた教師の真実をタイムスリップして初めて知ることとなる。

好青年で彼女と思い合っていたその先生は赤軍(いわゆる赤)で国に反撃するため時限爆弾を製作していた。爆弾作成はもちろん罪人である。大きな理想を振りかざしていても。チンピラに見つかり責められ、その日彼女がいない日に教師は逃げるように下宿屋を出て行った。チンピラに「彼女をよろしく。自分の分も大事にしてほしい」と言い残して。「彼女が本当に好きだった」と最後に言って出て行った。それを陰ながら聞いていた68歳の松坂は自身の部屋で号泣するのだった。

 

チンピラと結婚した松坂慶子は幸せではなかった。いつも1人で山に行ってしまう夫に自分への気持ちはないと思い心を閉ざしていった。50年夫婦であって、妻のそっけない態度に心がすれ違ったまま出て行った夫は、先程の最初の場面のように外出先で亡くなってしまう。

 

この物語の面白さはここからで、タイムスリップした世界で、若き夫は魔法使いの少女より「80個流れ星の浮き出る石を探せば願い事を叶える」と言われ約束したのだった。

 

夫は結婚後50年かけて何度も何度も山へ1人出かけ石をついに80個集めた。夫がその時、魔法使いにお願いしたことは「愛する妻を幸せにしてあげられなかった。私の願いは妻に4つの願い事を叶える魔法を与えてほしい」というものだった。ドラマ後半でそれがわかる。4つの願いとはその頃流行っていたちあきなおみの歌「4つのお願い」。若き夫と彼女との思い出の歌だったからだ。

 

教師のことを心から好きだった18歳の頃の松坂慶子のことを知っているチンピラだった夫は、結婚後素直になれなかったのかもしれない。松坂慶子はとっくに教師を諦めていたのだが、そのような原因で夫が自分に冷たかったとは知る由もなかった。

 

3つの願いは使い果たした彼女だったが、夫の願いにより、4つ目の願いを魔法使いに頼むことができた。彼女は夫と最期にそっけなく別れる日に戻してほしいと魔法使いに頼んだ。そして願った通りになった松坂は思い切り夫の小さな言動にも気を配り反応し、夫に今までの感謝の言葉を述べることができた。そして出ていく後ろ姿に「帰ってきてね」と心から夫に伝えられた。結局夫は亡くなってしまうのだが、すれ違った心の通わない夫婦としてではなく、感謝の気持ちを伝えることができ永遠の別れとなった、というのがドラマの結末だ。

夫も本当は彼女を愛していたのに50年間素直になれず、ひたすら石を探し続けたという物語。夫役は船越英一郎だ。

 

皮肉なことに魔法使いなどいない現実に生きている私たちは、魔法がないからこそいっときいっときを素直に正直に気持ちを伝えて生きなくてはいけないのだとこの物語は伝えているのではないかと思った。

 

少しとぼけておっとりしている松坂慶子の演技がなんか面白くもあり、リアルでもあった。

 

生きるってことは、今を大切にしなくてはいけないのだと改めて気づかされたドラマであった。

 

また、落ち着いたら別のテーマでしっかりとブログを書きたいと思っている。

 

神様のカルテ

テレビでドラマスペシャル『神様のカルテ』(テレビ東京)を観た。

 

福士蒼汰主演の長野県松本市の救急病院が舞台の物語だ。

 

松本市は私が子供の頃、母と毎夏休み行った街なので懐かしく観た。松本城があり、美しい街であったと記憶している。

夏目漱石が子供の頃から好きな内科医師「一止(いっと)」。話し方も考え方も変わった医師を福士蒼汰が好演していた。語り口調も夏目漱石の「坊ちゃん」っぽい。

 

物語の中で主人公がこう呟く。

『命は人の及ばぬところで既に寿命が決まっている。もし、その生命が土に埋もれているならば掘り出し風を送り光を当ててより良い最期を作り出す。医者とはそういう仕事なのでは・・』

胆嚢癌の72歳の女性(風吹ジュン)があと余命数日の時、絶対安静の患者を屋上に連れて行き、彼女の育った信州の山並みを見せ、絶食状態の患者に最後に彼女が希望した文明堂のカステラを差し出す。看護師たちの希望もあり、背中を押され一止医師は風吹ジュンの最後の希望を叶えてあげようと企んだ。

患者は2日後に急変。しかし現代医療で可能な延命措置を行わないことを一止医師は選んだ。もちろん生前患者が望んでいたことを知っていたからだ。

夫を亡くして35年、身寄りのない彼女が最後に先生に手紙を残していた。彼女は死んだら夫に32年前プレゼントしてもらった毛糸の赤い帽子を被せてほしいと医師に頼んだ。その赤い帽子の中に手紙はあった。

 

「病とは孤独である。病の一番辛いことは孤独を突きつけられることではないか。先生は最後に私に楽しい時間を与えてくれて、最高の治療をしてくれた。先生が今後壁にぶち当たることがあっても、最高の医師であることを保証するから支えにしてほしい。」

このような内容だった。一止医師は手紙を読んで嗚咽した。

「一止」という名前は合わさると正しいの正の字になる。人生に迷ったら物事の始めに戻って、最初の一歩から考えることの大切さを表した名前だ。父親がこだわって付けた名前だが、72歳の患者(風吹ジュン)も名前の奥深さに気づいたのだった。

 

延命措置をして、現代の医学では5日くらいは心臓を騙して動かすことはできる。しかし、あえてそうしない道を選んだ医者の決断は勇気がいったのだろう。愛する夫の元に行かせてあげたかった。しかしこれで良かったのだろうかと自問自答していた。

 

一止先生は大学病院(信州大学医学部の病院)に移れるチャンスを捨て、現在の勤務する病院を選んだ。365日救急患者を受け入れる鬼忙しい、老人や末期がん患者と向き合う医師としては出世街道ではない病院。医療の底辺ゆえの深さもあるが第一線とはいえないその病院で、医師を続けるという決断をしたところで番組は終わった。

 

来週は他のテーマでドラマは続く。医療の根本から人生や病について考えさせられる番組であった。また観たいと思う。

 

 

オンラインフォーラムを観て

インターネットで申し込み、2時間45分のオンラインフォーラムを観た。

NHK厚生文化事業団他と読売新聞社主催で神奈川県で行われた。タイトルは「がんと生きるーこころとからだ私らしく」である。

パネリストは医師2名とがん患者会代表の女性と、ゲストが堀ちえみさんであった。

 

2部構成で、1部は堀ちえみさんの壮絶ながん体験の話であった。

最初舌がんステージ4と医師から宣告され、緩和ケアを選ぼうとしたそうだが、家族の愛情で生きることを選択したという経緯が語られた。リハビリの詳細な説明とビデオを観て、いかに闘って来たかが伝わった。

 

2部は最新の胃がん治療の方法や高齢者のがん治療が中心であった。

北里大学病院の比企直樹医師は、胃がんの手術には定型手術(開腹手術)と内視鏡手術と腹腔鏡手術があるが、比企先生はLECS =レックスと呼ばれる腹腔鏡と内視鏡手術を合体させた手術を考案した方だ。再発のリスクは20パーセントほどはあるが、体にやさしい手術で高齢者にはふさわしい面もあり、術後の人生が豊かに生きられる。開腹手術による体力の著しい低下がなく身体への負担が少ない。再発しても、その後はがんと共に生きていくという選択肢もあるからだ。何より嬉しいのは医師による丁寧な説明により、自身(家族)が手術方法を選択できるということだ。外科医と内科医が立ち合う手術場面も映された。医学は間違いなく進んでいる。

 

また、九州がんセンターの西嶋智洋医師は高齢者の状態を評価し(高齢者機能評価)、筋力や健康状態・生活習慣・認知度などを分析し、最適な手術または緩和ケアなどの選択肢を提示する根拠としている。

その人らしさを重んじる医療が行われていることに心強いと思った。

しかし、まだこの取り組みをしている医師や病院は日本では少なく、そこがもどかしい限りである。

 

時代は、医師からの押し付けではなく、徐々に患者側に立った医療が進められつつあるということを知り、希望を持つことができた。

 

松澤千恵子さんはがん患者の「コスモス」世話人代表で神奈川で活躍している。コロナ禍のためオンラインで会合を開き、孤独な患者さんとの交流を続け、お互いに励まし合っているという話をしていた。独居または離婚して1人暮らしの患者が多く、孤立しがちな状況から脱する方法が提示された。地域や近所で支えあい、患者は決して孤独ではないと事例を示して訴えかけられた。

 

最後に堀ちえみさんが話していたことに心打たれた。

「私も再発や転移を考えたら正直大きな不安を抱えるが、医療は日進月歩で目覚ましく進歩している。暗くならないで、もしそうなったら医療を信じて溌剌と立ち向かう自分でありたいと思う」

何と強い言葉かと思った。真から不安に立ち向かい、大変なリハビリを今も続けている人だからこそ絞り出せた言葉なのかも知れない。

 

今回のフォーラムに出会え、何と幸運だったかと、心からそう思う。

 

【感想☆フォーラム終了後に送った】

このフォーラムを見てとても心強く、私自身将来を見据えることができました。先生方のお話はもとより、堀ちえみさんの隠すことのないお話と前向きな姿勢に感動し、励まされました。
今回、フォーラムを見るという良い機会と巡り逢えて感謝しております。

 

おもひでぽろぽろ

NHK BS で「おもひでぽろぽろ」を観た。正確にはアニメの「おもひでぽろぽろ」を実写でドラマ化し、しかも主人公の10歳の子供の50数年後を描いているドラマだ。

もともと宮崎駿プロジュースでスタジオジプリで1981年に公開されたアニメであり、昭和41年当時の女の子の話が中心で、成人した(20歳代となった)主人公が思い出を語るという構成で映画は進む。

 

面白いのがその主人公の女の子は私より4〜5歳歳下なのだが、実写版でも、松坂慶子演じる主人公は50数年後、つまり60歳代半ばに差しかかる女性 であり、これも私の年齢と近くなっている。

 

随所に懐かしい昭和の時代の香りのするアニメ「おもひでぽろぽろ」の大ファンであった私は、何回もテレビで放映するたびに観て懐かしんでいた。

そして、今回松坂慶子演じる60歳代になった女の子が、アニメと同じに小学生の頃を思い出してエピソードを語り、映し出され、なんと嬉しい展開であろうか。懐かしいアニメの「おもひでぽろぽろ」も同時に観たようで懐かしむことができた。

 

60歳代になった主人公は、シングルマザーの娘とその娘=孫が同居することになり、引っ越して来たばかりで浮き浮きしているところからドラマは始まった。小学生の孫娘の生活から自分の小学生時代を思い出すほろ苦い場面が何回かあった。夫は入院中で、夫からは「(お前には)自分の脱サラ後レストランをオープンし、散々苦労をかけたから、これからは自分の人生を楽しんでほしい」と告げられる。

 

実の娘(杏≡演者)との言い合い、うるさい母親の言い過ぎの場面もあり、シングルマザーの娘の気持ちも良く表されていた。

 

急に自分の人生を楽しめと言われて途方に暮れる主人公だったが、ふとしたことで熟年の素人役者募集のオーディションの広告を見る。まさかの思いがけない手違いから申し込みをしてしまい、結果オーディションに受かるというストーリーに発展する。60〜70歳代の素人がシェークスピア劇を演じるという話は現実的とは言えないが、第二の人生を女優ということで探し当てた高齢者を松坂がユーモアたっぷりに演じていた。

 

小学生の時に演者になりたかったが諦めた思い出とからんで話が展開していく。

 

孫娘の学芸会での演じることへのアドバイスもした主人公だったが、コロナで劇場が倒産。直前で公演は中止となってしまう。落胆したのも束の間、次のオーディションにも受かったとかで、明るく笑って物語は終わる。入院していた夫も無事退院となる。

 

ほのぼのとしたドラマであったが、私は「ひょっこりひょうたん島」のテーマソングが聞けたり、流れる歌謡曲や洋楽の懐かしい旋律がいくつも流れ、ときめく場面が多かった。人も小学生も背景も皆昭和のあの頃の香りがしていた。そこには中学2年生の頃の私や、着物を着た40歳代の私の母親も頭の中で登場していた。

 

何より主人公が第二の人生と出会えて生き生きと暮らしているのを観て励まされた。女優とはいかないが私もまだまだ諦めていけないのだと背中を押されたような、甘酸っぱい昭和の記憶と少し光った令和のこれからを同時に考えられ、感慨深い時間を過ごすことができて嬉しかった。

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

母のお墓参りに行ってきた。

昨日は母の十三回忌に当たる。亡くなって12年経つ。

 

最近長男に「生きていて楽しみある?」と聞かれた。私は「全くない」と返答した。

それ以来このブログを書けなくなってしまった。「生きる楽しみは?」はたまた「なぜ生きるのか?」などのテーマを勝手に抱えていて、答えが出せないまま月日が流れた。

 

母とレイちゃんはあの世で会っているのだろうか? 父が「この犬はよし子が飼っていた犬だよ」などど教えているのだろうか?

 

私にとって「生きる」とは、1日1日命をつなぎ、この世にいさせていただく。生きて暮らす人々の輪にいさせていただく、そんな気がしている。昨年病気をしてから、そう思うようになった。病気になって死を身近に感じ、そして今、生きられているからだ。

 

死とは人が亡くなってほとんどの場合、どんな人生で「悔いはないか」「やり通した人生か」などその人の人生を語り思いを馳せるのは、不思議と全てこの世に生きている残された本人を知る人々だ。決して本人ではない。何故かというと、それを考えるはずの時間に本人は死んでいるからだ。例え死を意識し覚悟してもそう信じたくないのが人間だ。「死ぬかと思った。でも生きていた」ってことがあると信じたいのだと思う。

死ぬとは自分で自分の人生を回想したり評価することができない状態であると私は考えている。死ぬとはそういうことだ、と私は勝手に思っている。つまり、死ぬ自覚なく、人はこの世の人でなくなる。同時に生まれる自覚なく、物心つくと生きていてこの世の暮らしをすでに開始しているのと正反対であり、また、同時に同じである。

 

こんなことを漠然と想って生きている。

 

長男に聞かれた「楽しみはあるのか?」の質問には、お酒や娯楽に逃げる楽しみは持っていない。特に強く主張できる趣味もないと思う。

今はこの世の一員として生命があり、この世の片隅でささやかに生きられていることに感謝して、1日1日を無事過ごせて喜んでいるというのが、唯一の私の楽しみなのかもしれない。そして、いつか「これが私の楽しみ」と大きな声で言える大きな楽しみを探すことを夢に描いて、まず今は生きている。

 

とりとめのない文章となったが、今日という日、もうすでにこの世にいない母や父やレイちゃんを思い、お墓参りに行ったことを書き残しておきたいと思いブログを書いた。

 

 

「John &Yoko」展に行ってきた。

11月12日、六本木にあるソニーミュージック六本木ミュージアムにジョンとヨーコの展覧に行ってきた。

六本木駅から歩いて7分、静かな街にひっそりとあったミュージアム

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ジョンの歌声があちこちから聞こえており、ヨーコと過ごした数々のビデオが上映されていた。

 

ジョン・レノン生誕80年 没後40年

40年前私は子育てで忙しい中聞いたこのニュース。ニューヨークでジョンが死んだ! その衝撃は今も忘れられない。ジョンのいないこの世界がなんと見すぼらしいと感じたか。そして、Johnのいるあの世はそんなに悪いところでもないんだ。Johnがいるなら・・・

しかしやりきれない思いで何日も何日も暗い気持ちで暮らしたあの頃が蘇った。

 

イマジン「想像してごらん すべての人々が 平和な暮らしを送っていると 想像してごらん 国なんかない世界を・・・」

この歌から、世界に平和が訪れると本気で思っていたあの頃。

ジョン・レノンはその頃アメリカで精力的に社会運動やパフォーマンスを繰り広げていた。

『「WAR   IZ  OVER」戦争は終わった もしそれを望むなら」』と世界主要12都市に広告板やポスターを掲げ、音楽で世界中に訴えていた。

その後長男ショーンが産まれると育児に専念。「ロックンロールより子育てのほうが何倍も芸術的だよ」と話していた(湯川れい子談)。

 

ジョン・レノンは「人種・文化・思想・性別が隔てていた壁を取り払う事を自らの行動で示し、カリスマとなって行った。」

バックにはヨーコの影響は多大だったと思う。むしろ先導されている時期もあったのではとこの展覧を見て思った。

イマジンという曲の「想像してごらん」という声かけはヨーコから発せられた言葉だった。後に2人の曲として世の中に示したということであった。

 

白い外観の豪邸に2人は住んだ。その1階の広い部屋でジョンが「イマジン」を白いグランドピアノで弾き、歌っていた。ヨーコが暗かった部屋の大きな窓を一つ一つゆっくり開けていく。曲は続く。全部開け終わった時部屋は太陽が差し込み明るくなり、歌っているジョンの隣にヨーコは座る。

曲が終わり、ジョンがうっとり余韻に浸り、少ししてヨーコの顔を見る。目を合わした2人が少し数秒真顔で静止し、その後2人のどちらからともなく顔をクシャッとさせ、キスをする。

美しい忘れられない瞬間だった。私にとってこの展覧の一番の感動場面であった。

 

アメリカではあの頃、ジョンレノンにその行動を監視するFBIが数人付き纏っていたとか。戦争を否定されたくなかったニクソン大統領。怖しい国なのであろうか?

人種差別を当たり前とするトランプ大統領にもし、ジョン・レノンが会ったら何と言うのだろうか・・・

そんなことを考えながら、地球はなんと貴重な人物を失ったのか、ジョンのいない世界のなんと精彩を欠いていることか、絶望に近い地球となっていることを40年ぶりに改めて痛感して帰路についた。

 

 

ティップネス🏃‍♀️

今朝のこと。いつもの時間に目覚ましが朝を告げた。私は「今日は休みなのだから、あと1時間半は寝坊したいと葛藤した。つまりいつもの時間に起きて準備しなければスポーツクラブの朝一番のスタジオに間に合わないからである。あんなに昨晩は「必ず行こう」と思って寝たにもかかわらず。

 

しかし、しばしの葛藤の結果、私はムックと起き上がり、いつものように軽く朝食を摂りスポーツクラブにいく準備に取りかかった。

 

晴天が気持ちよく、日差しも暖かかった。この季節らしい天候に巡り合えたことを感謝しながら自転車を走らせた。

 

10時からのストレッチのスタジオに参加。先生に「腰痛なので・・」と話すと「無理しないで気楽に」との返答。始まって体を伸ばしていたら、痛かった腰がなんとスッキリしているではないか。無事45分のメニューが終わり「参加して良かった!」身体は使わないと古びていくのだと改めて知った思いだった。

 

その次のスタジオはかつて毎週のように通ってた「ファーストビクス」だったが、もちろん気を良くして無理したら元も子もないと知ってはいる。ジムエリアで悩み血圧など測りながら考えた。しかし、考えるより何より次の瞬間、懐かしさで私は「ファーストビクス」のスタジオに向かっていた。

 

先生が私を覚えていてくださり、2度見をしたあと笑顔をくださった。やはり腰痛を告げると「無理しないで。もう無理と思ったら、退室して構わないから。そしたら(無理しないで)

帰ったんだなーと思うから」と冗談めかして言ってくれた。

 

しかし最後まで久しぶりのエアロビに何とか参加できた。何より先生が終わってから「来週もエアロビだから(参加してね)」と声かけてくださったことが嬉しかった。

 

やはり今日は起きてスポーツクラブに行って良かった。二度寝していたら何も収穫のない退屈な日曜日を過ごしたことだろう。

 

腰痛は無理はできないけど家にいても悪化する時はするし、運動で回復に向かうこともあるので、怖がらず積極的に挑戦するに限るということを学んだ今日でした。腰痛は精神的な面も影響する病でもあるらしい。これからは「負けないぞ」と思って暮らして行きたい。

 

今日の出来事。

前にも書いたが、私は有料老人ホームで「生活支援」者として働いている。

勤務先のホームは比較的裕福な人以上が入れる中規模のホームである。高級ではないが、多分人生のある意味成功者でなければ決して入れない価格帯の施設だと思う。

 

そんなことは問題ではない。私の仕事は「生活支援」と言うと聞こえは良いが、いわゆる介護者のやるべき仕事(会社によって考え方は様々だが)を支えるお手伝いさんだ。

 

毎日4室のシーツ交換と居室清掃。他の4室は居室清掃のみ。1人で行うのでそれぞれ20分は優にかかる。約2時間で終わらせるのが目標である。

そしてその後、別の階の全居室16室のトイレと洗面台の掃除を1人で全部行う。こちらは1時間以内で終わらせなくては、次の仕事に影響が出てしまう。

 

私が今日は居室清掃だけの男性入居者の部屋に入ったら、シーツが茶色で汚染されていた。点々とシミがついている。枕カバーも微妙に汚れている。まだ、入居して3日目の方だ。

しかし、シーツ交換に該当しない方の交換はその階の介護者の仕事と決められている。生活支援の我々も次の仕事があるので、気付いてもできないのが実情だ。介助してその入居者を居室に誘導してきた介護者(若い女性)に私は本人に気づかれないように小声でその事実を伝えた。「ありがとうございます。替えておきます」との返答を予測して。しかし、彼女は返答もなくその方を無言でベッドに誘導したのだった。

 

午後になり、その話を今日勤務のもう1人の40歳代の生活支援の女性に話した。そしたら、彼女はやはり私の担当居室の掃除を応援しようと思い、その入居者の部屋に入って、シーツの汚染に気づいていたとのこと。しかし、本人が戻って来たから遠慮して、私の応援は他の居室の清掃に切り替えたとのこと。

彼女は「(その新しく入ったばかりの入居者の方が)可哀想だから、私替えて来ました。だって、私の家族があんなシーツで寝かされていたと思ったら嫌だから」とポツリと言った。

そうだ! これこそが介護の真髄だった! 「私は新人でイレギュラーな対応をする余裕もなくそんなことをして良いかについて考えもしなかった」それは私の甘さであり、問題から逃げている姿勢であり、単なる言い訳に過ぎない。午後は私達の業務にも時間に余裕ができる。彼女もその余裕のできた時間帯に黙って行って、男性入居者のシーツ交換をしていたのだから・・・。

替えてきて良いか聞いて、私が行こうと思う発想すら思い浮かばなかった自分を恥じた。

 

彼女の娘さんも短大を出て訪問介護の道を選んで働いていると言う。優しい心の人が今もたくさんいるのかも知れない。そして、私も見習って心から行動できる、人の立場に立って考えられる生活支援の人になろうと心に決めた今日の出来事でした。