ceciliaのブログ

小さなつぶやき!

母のお墓参りに行ってきた。

昨日は母の十三回忌に当たる。亡くなって12年経つ。

 

最近長男に「生きていて楽しみある?」と聞かれた。私は「全くない」と返答した。

それ以来このブログを書けなくなってしまった。「生きる楽しみは?」はたまた「なぜ生きるのか?」などのテーマを勝手に抱えていて、答えが出せないまま月日が流れた。

 

母とレイちゃんはあの世で会っているのだろうか? 父が「この犬はよし子が飼っていた犬だよ」などど教えているのだろうか?

 

私にとって「生きる」とは、1日1日命をつなぎ、この世にいさせていただく。生きて暮らす人々の輪にいさせていただく、そんな気がしている。昨年病気をしてから、そう思うようになった。病気になって死を身近に感じ、そして今、生きられているからだ。

 

死とは人が亡くなってほとんどの場合、どんな人生で「悔いはないか」「やり通した人生か」などその人の人生を語り思いを馳せるのは、不思議と全てこの世に生きている残された本人を知る人々だ。決して本人ではない。何故かというと、それを考えるはずの時間に本人は死んでいるからだ。例え死を意識し覚悟してもそう信じたくないのが人間だ。「死ぬかと思った。でも生きていた」ってことがあると信じたいのだと思う。

死ぬとは自分で自分の人生を回想したり評価することができない状態であると私は考えている。死ぬとはそういうことだ、と私は勝手に思っている。つまり、死ぬ自覚なく、人はこの世の人でなくなる。同時に生まれる自覚なく、物心つくと生きていてこの世の暮らしをすでに開始しているのと正反対であり、また、同時に同じである。

 

こんなことを漠然と想って生きている。

 

長男に聞かれた「楽しみはあるのか?」の質問には、お酒や娯楽に逃げる楽しみは持っていない。特に強く主張できる趣味もないと思う。

今はこの世の一員として生命があり、この世の片隅でささやかに生きられていることに感謝して、1日1日を無事過ごせて喜んでいるというのが、唯一の私の楽しみなのかもしれない。そして、いつか「これが私の楽しみ」と大きな声で言える大きな楽しみを探すことを夢に描いて、まず今は生きている。

 

とりとめのない文章となったが、今日という日、もうすでにこの世にいない母や父やレイちゃんを思い、お墓参りに行ったことを書き残しておきたいと思いブログを書いた。